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2月の活動報告

 今月は事実の総量が多く、普段通り何も考えずに書くと言葉の過剰包装になる恐れが高いので、簡潔な文体でいきたいと思います。

 

 春休みになった。試験期間に比べれば比較的暇になると思ったけど、そういえばバイトを始めることになっていた。システムは少し特殊だが、一種の個別指導みたいなものだ。1日おきにそれの研修をやっていた。時給は低いが、時間外労働が発生しないのは嬉しい感じだった。自分の頭に入っている知識は体系化からは程遠くて、至る所に穴や瘤があるし、ズタズタの主要道路の機能を本来存在してはいけないようなバイパスが補っている状態だったから、きっと大変な仕事になるだろうと予想してたけど、実際思ってたよりは簡単な仕事だった。面倒な体系化の作業は市販の学習参考書が補ってくれている。僕のやることはその平易な文章をより簡単な箇条書きや図にパラフレーズすることで、あるいは生徒の答案をOCRのように読み上げて採点をすることらしい。

 それにしても僕は勉強も予備校も嫌いだったので、自分が教育っぽいことをしているのはどう考えても間違っている気がしてならない。まだ実際の生徒を受け持ってはいないのでなんとも言えないけど、仮に「勉強をすることで何か良いことはありましたか?」みたいなことを聞かれた際は何と答えようか。大学―下宿圏内の1km生活圏にいるときは気づかないのだが、僕は恐らくめちゃくちゃ異様で不健康そうな見た目をしている。こんな人間が「○大生」のインスタンスとして生徒の頭に入ることで、彼らの学習意欲を損なうことにならないだろうか、そこらへんも心配である。そして学歴同好会みたいな活動をやっていたことがバレたら、あるいは単にtwitterやHNがバレただけでも、無慈悲な懲戒解雇は必然だろう。現状がいつまでも続くとは思わず、次なる職のアテを見つけておくべきなのかもしれない。

 

 中旬くらいから山形に免許合宿に行った。運転は苦手だ。ブレーキとかアクセルとか、明らかにミスを誘発する設計が放置されている気がするし、その一つのミスは容易に人命が吹き飛ばす。僕の命がどうかはさておいて、一般的にかけがえのないものとされているものを消滅させるのは良くないだろう。それを簡単に起こせるので車は良くない。チェルノブイリ以前に設計されたインターフェースを僕は信用しない。

 狭い教習所内のコースを走るのは本当に大変で、最後まで細かいミスを連発していたのだけど、なぜか仮免試験を受けて良いという判断が下り、なぜかこれに合格した。右折を間違えて反対車線に入ったり、方向指示器を出すタイミングを間違えまくったりしていたので、まさか受かるはずがないと思っていた。本当に謎の力だった。

 それに受かると実地練習といって、教習所の外、実際の道路に出て運転の練習をさせられた。最初は緊張した。ついに前科がつくと思った。だけど山形は良い場所だった。歩行者が存在しないのだ。道も広い。だから二三回の試行のあとには、僕は危険運転致死傷罪についてあまり考えることなく運転できるようになった。

 運転している僕がそんな感じなんだから、隣に座っている教官はもっと暇だったのだろう。そうなると教官は度々雑談を振ってくるようになった。それが一種の義務であったかのように思ったのだろう。丁度床屋の店員のようだ。しかし床屋と教習車では根本的に論理が違う。髪を切っている店員と切られている客とでは、明らかに切られている客のほうが暇だ。だから、もし店員のほうが散髪をやっているにも関わらず暇だと考えているならば、雑談を仕掛けて互いの暇を解消するのは決して誤った選択肢ではないだろう。しかし教習車の中では、運転している生徒のほうは明らかに教員より忙しい。だから教員が暇だと思ったとしても、生徒もその暇さを共有しているとは限らない。それなのに内省のみに基づいて雑談を振ろうと決断するのは、これは明らかな誤りだと言わざるをえない。

 ともかく、僕はほぼ毎時間雑談を振られた。教員に渡す生徒カルテみたいなやつにはなぜか大学名を書かされたので、基本的にはそこから質問を受けることが多かった。一番多かったのは、大学で何やってるの、という質問だった。最初は言語学と答えていた。しかしよく知られているように、言語学の領域は決して周知のものではないし、僕自身もよく分かっていないので説明できない。だから途中からは哲学と答えることにしていた。一度将来の夢を聞かれた。哲学者と答えた。会話はそれきりだった。僕はドアミラーにちらと目をやって、それからまっすぐ前を見据えた。果てしなく伸びる道路の向こうに、雲一つない美麗な青空が光っていた。アクセルに足を置いた。でも分かっていた。いくらアクセルを踏んだところで、あの空にはきっと辿り着けないのだ。

 

  当たり前のことだけど、教習所に来ている大学生たちは非常に多様だった。これを書いていて、そういえばDQNという言葉もあったなとか思い出したけど、あそこではそういう差別的な言葉を使う気にもならなかった。あそこには絵に描いたような若者がたくさんいて、ホテルのロビーでラップバトルをしたり風呂場で競泳競技を行ったり、一番酷かったのはなぜか脱衣所や食堂から度々スリッパを持ち去られたことだけど、でも彼らのほうがたぶん運転は上手いし、生活にあたっての支障も少ないはずだ。そして僕は啓蒙主義者でもなければ国粋主義者でもないので、最近の若者が総体としてどうだというところを論じるつもりはない。

 ただ、言語と論理の関係性については日々考えさせられた。教習所論理といういわゆるアレに加えて、送迎バスや大浴場の中で彼らの会話を日々聞いていたからだ。叙述や推論というのは、多様な言語機能のごく特殊な一形態に過ぎない。一般的に言葉を動かしているのは、隠れた定義と法則に拠って動く論理ではなく、むしろニュアンスとか気持ちとかの問題だ。もちろんそれを知らなかったわけじゃないし、自分が普段論理に従って会話してるとも思ってなかったけど、この二者の比率があそこまで後者に偏っていても会話が成立するということ、これは大きな発見だった。言語学を専攻とする気持ちはまだ揺らいでいないので、この経験はきっと糧になると思う。

 

 厳密には3月の話だけど、卒検に受かった僕は山寺という場所に行った。山形駅から仙山線で20分くらいの場所にある、本当に山の上にある寺だ。一応春といっても良い時期で、絶えず雪解け水の流れる音が聞こえてはいたけど、足元の参道の曲がりくねった石段は踏みしめられて完全に凍っていたうえ、滑りやすい氷の表面は微妙に谷側に傾いていて危険なことこの上なかった。部分的に除雪はなされていたが、なぜか手すり近くは固く凍ったままで、わざと登らせないようにしてるのではないかとさえ思った。そういえば参道の入り口にいたお坊さんも、酷くむっつりしていて無愛想だった。

 足元の珍奇な岩も遠くの山影も、本当に見るもの見るものが感情的というか文学的で、さらには松尾芭蕉の句碑が立っているとまできたものだから、参道を上がりながらつい僕も頭の中で紀行文らしきものを考え始めていた。僕の細道だ。でも僕に叙景の才能は無いらしい。少し気に入った表現ができたところで、今目と耳で感じている生の感覚にはまったく追いつかない。広大な海から言葉の匙でわずかに感覚を切り出して、いくらそんなことをやったところで元の海の大きさを計り知れるはずもない。

 これは無理なのではないかという気持ちを持ちながら、それでも健気に奥の院までを上り詰めて、なんとか帰り途も表現を探し求めていた。敗色濃厚だった。鋭敏で未分化な世界に対して、言葉の範疇化はあまりに無粋。ついそんな勿体ぶった負け惜しみまで考えながら、僕は階段を下っていた。上りよりも明らかに危険度が高い。一段一段恐ろしく時間をかけて降りていったが、しかし駄目だった。段の切れ目すら分からない、真っ直ぐな下り勾配が現れて、一歩踏み出した瞬間僕は尻をつきながら数メートルを滑り落ちていった。

 動きが止まり、恥ずかしさと痛みに耐えながら立ち上がること数秒。僕は例の完全に文学的試行を放棄していた。再開しようとも思わなくなっていた。あとは周りを見渡しながら、そして足元に注意しながら山道を降りていった。出口、無愛想な例のお坊さんのところまで来て、不意に除雪はわざと大雑把にしていたのではないかという気がして、ふとなんだか笑いが出てしまった。

 

 その日の夜、僕は山形市内のビジネスホテルに泊まった。狭いけど清潔で良い部屋だった。何より数週間ぶりに味わう一人の夜だった。荷物を置いて服を脱いで、ついでに山寺で身につけた超然的な佇まいも殴り捨てて、僕はベッドの上で煩悩を結実させた。快い感覚に取りつかれているうちに、やっぱりもうちょっと文章で頑張ってみたいという気持ちになった。